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読書ノートから(天童荒太『悼む人』)

2017年9月20日

今月は私の読書ノートから。取り上げる本は天童荒太(てんどうあらた)著『悼む人』(2008年、文藝春秋)。単行本で456㌻、文庫本で上下巻688㌻という長編小説である。

人の死生観について、というと重いテーマの小説ではないかと敬遠されそうだが、著者の直木賞受賞作であり、けっして難解な純文学ではない。早速あらすじから。

物語は女子高生が同級生に刺される場面から始まる。数年後、その殺人現場に坂築静人(さかつきしずと)という青年が現れる場面がプロローグ。殺人・事故・病気・自殺と、人の亡くなった現場を行脚し、彼は追悼していく。左ひざをつき、右手を宙に挙げ、左手を地面すれすれに下ろして、それぞれの場所を流れている風を自分の胸に運ぶようにして両手を重ねて頭を垂れて目を閉じる…。それが彼の「悼み」のポーズであった。

なぜ彼は追悼の旅を続けるのか。その終わりなき旅路を追っていくストーリーなのだが、求道者のようにストイックに生きる静人の道程には深く関わる人物がいる。一人は、父母の離婚をきっかけに、父を憎み、妻子とも別れ、すさんだ心のままに、事件を興味本位に記事にしているフリーライター・薪野抗太郎(まきのこうたろう)。そして自殺願望の夫を殺してしまって服役し、自らも死に場所を求める女性・奈儀倖世(なぎゆきよ)。彼女は物語の後半で静人の同行者となる。そしてもう一人は、行先も告げずに旅に出た息子の帰りを待つ母・坂築巡子(さかつきじゅんこ)。彼女は末期の胃がんで余命を告げられ、前向きにそれを受け入れようとしている人である。この抗太郎、倖世、巡子の三人は、それぞれの生と死の狭間で静人と交流し、最初はただ奇異な行動をいぶかしく思い、理解できず、受け入れられない。だがそれぞれ自分の運命と向き合いながら、やがて静人と精神的な一体感を得る境地に至る。

人の死を悼むこと、ましてや報道で知る自分とは関係のない他人の不幸に対して祈りを捧げる静人の行動から、われわれは死者を「悼む」とはどういうことかと考えてしまう。震災や大きな事件の犠牲者への追悼は、いわば「共感としての追悼」。身近な人の追悼は、「実感を込めた追悼」という違いがあるように思う。

著者が本書を書くきっかけになったのは、あの「9.11」だったという。その追悼集会では、犠牲者一人ひとりの名前が呼び上げられていたのが印象的だった。それに対して、中東地域のテロや空爆の犠牲者はただ単に数字で伝えられるだけだった。人の命の価値に軽重はないといいながら、そのあつかいの違いからは、私も何か理不尽ささえ感じたものだった。人の死を悼むとは、生きていたその人の人となりを理解してこそ、心からの追悼となる。そういう意味では、1年前の相模原の施設での犠牲者も「19人」という数字のみが伝えられ、どのような人であったかもわからずに悼んでいる。

「亡くなった方は、だれに愛されていたでしょうか。だれを愛していたでしょうか。どんなことをして、人に感謝されたことがあったでしょうか」

静人は悼みの現場で、故人を知る人にこう問いかけている。どのような死に方をしたか、ではない。どのような意味のある生を終えたか、という問いである。

そして話は多少因縁めくが、私が本書を読み進めていたちょうどそのときに、身近な人の不慮の死に遭遇した。あまりに衝撃的な不幸な出来事に言葉を失い、どんなことばで悼むべきかとあれこれ思いを巡らしていた。そんな私の杞憂を救ってくれたのは、ある人の次の一言だった。

「あなたのことをけっして忘れません」

(法澤 奉典・のりざわ とものり)

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