本文へジャンプします

世の中には売り買いできないものもある

2015年10月19日

福島県三春町にある臨済宗福聚寺(ふくじゅうじ)の住職・玄侑宗久(げんゆうそうきゅう、1956年生まれ)は、芥川賞作家でもある。瀬戸内寂聴と並んで、著名な僧侶兼作家だ。私はマスコミ通じてその名を知った。宗教家らしい発言をする人、という印象だった。

月刊誌『文藝春秋』2015年8月号の「戦後70年 崩壊する神話 この国のかたちを問う53人の提言」という特集記事の一篇として、玄侑が『忘れられたお寺とお墓』と題する短文を寄せている。寺に生まれながら仏門とは無縁にやってきた私ではあるが、玄侑和尚の語るところに大いに納得するところがあった。

今年「戦後70年」という言葉を何度も聞いてきた。ほぼその年月を生きてきた者には、自分なりの世の中の変化についての実感がある。玄侑にとっては「お寺とお墓」の変わりようがそうだった。

玄侑は、都市部に住む者の間では、「個人主義の進展と世の中の市場原理主義化」が顕著で、「死が共同体の重大事であった時代は遠のき、『直葬』や『家族葬』などの言葉が生まれた。またあたかも自分の後始末を自分でできるかの如く『終活』が盛んである。そして「お布施」という独特の経済システムが市場的には理解されないため、一部の寺院はそれを『対価』と見做し、自ら市場経済に乗っていこうとする。…このままだと仏教の基盤である寺の存立が危うくなるのは間違いない」と言っている(下線引用者)。

この下りは、もしかしたら高度成長期以降に生まれた世代にはわかりにくいかもしれない。お葬式の際にお経を上げてくれた僧侶に「お布施」という名の謝礼を渡すのは誰も知っていることだろう。それがまるで「対価」(報酬)のような感覚で支払われているのが昨今である。「○○万円用意してください」などと喪主に耳打ちする葬祭業者の姿を見かけたことがある。かつて地方では、葬儀は共同体の行事であり、お布施も含めて葬儀のマネジメントは近隣地域の人びとが担った。文中では「独特の経済システム」と言っているように、葬儀やお墓には、共同体の中で、寺院が存立基盤を維持していける仕組みも備わっていた。いまや都市部では、葬儀の運営に近隣は関与せず、それは葬祭ビジネスの提供するパッケージ化された「商品」である。そして葬祭業者に“雇われる”僧侶までも現れている事実まで明かされている。

玄侑は「これが時代による変化なのかもしれない」としながらも、「このままだと仏教の基盤であるお寺の存立が危うくなるのは間違いない」と言い、「これは地方の存続問題にも繋がるし、市場原理主義をこのまま進めるのか、という問題でもある。世の流れからワンクッション置いた場所が仏教の住処だったはずだが、今はそれが保てるかどうかの瀬戸際かもしれない」と結んでいる。

もともと市場原理主義になじまない行為が「時代の変化」によって社会の経済システムに呑みこまれていく。だがそれにしても僧侶がサラリーマン、葬儀を行おうとする家族は消費者、という関係には何か気分の上で抵抗がある。それは私が寺に生まれたからという理由ばかりではあるまい。玄侑宗久のように、変化する社会の中で、お寺の危機を感じ、「仏教者はどうあるべきか」と思い詰めるほどではない。ただ、何もかもビジネスにしてしまい、人の心情に寄り添う者が安易に「市場経済に乗っていく」という点で、玄侑の言うところが他人事とは思えないのである。

最近、「社会福祉法人の原点」という声もよく聞いた。そういう意味なら、生活の危機にある人を“たすける”仕事はもともと「寄付」によって賄われていた。それは「お布施」と似ていなくもないなと、ふとそう感じた。

(法澤 奉典・のりざわ とものり)

ページトップに戻る