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おばこ天使はもういない

2018年6月25日

昔話をとりあげることが多くなっている。「亀の甲より年の功」ということわざに免じて許していただきたい。

50年前の1968年(昭和43年)、私は受験戦争を何とか乗り切って大学に合格した年だ。獲得した解放感から、軽い興奮状態の中の“福祉デビュー”の年でもあった。

その年9月に“社会福祉の父”とも仰がれる糸賀一雄が54歳で亡くなっている。そして、その思想と実践の結晶ともいうべき2つの大きな業績が、まるで遺言のように世に出ている。著書『福祉の思想』の初版が出たのが2月、そして療育記録映画『夜明け前の子どもたち』(柳沢寿男監督)が公開されたのも同じ年だった。『夜明け前の子どもたち』は、重症心身障碍児施設「びわこ学園」の実践を紹介したドキュメンタリーである。

それは“1968年の衝撃”だった。誰もが想像できる最も重いハンディキャップをもって生まれた子どもたちの存在を世間に知らせ、そしてそこに「福祉の哲学」という光を当てた。経済成長優先、能力万能の世の中に投じた一石だった。その対極にある「成長しない」「能力の低い」重症心身障害児の存在は、福祉とは何かと訴えるための象徴になった。

これより3年前になるが、「おばこ天使」なる新語が新聞紙上で話題になったことも思い出した。当時の秋田県の広報紙がこう伝えている(1965年7月1日)。

<看護婦不足を訴える東京島田療育園に、秋田から15人のおばこたちが集団就職してから早くも4カ月。その意志も固く、不幸な重症心身障碍児の看護に愛の奉仕を続けているところだが、若い世代の言動がとかく批判されがちな昨今の現象とはまったく逆に、万人の感動を呼んだこの明るい郷土の話題をまとめてみた…>

用語や表現も世相も隔世の感がある。「介護」という用語はまだ一般的ではなかった。重症児の介護や支援も「看護」という言葉にひとくくりにされている。「3K」などと介護職を敬遠する当世の若者に、「愛の奉仕」なんて言ったら、どんな反応をみせるだろう。

<卒業式も間近な、だがまだ雪が深い今年2月6日のことであったー/その日秋田魁(さきがけ)新報に「秋田から看護の手を/東京島田療育園入園まつ重症児ら」という4段見出しの記事が出た>

秋田県にも17人の重症児が施設入所を希望していた。しかし島田療育園に入所を依頼したところ、人手不足で受け入れ困難との回答があった。「人手も併せて確保してくれるなら…」という暗黙の条件提示だった。そしてこの記事になった。

<重症児が座敷ろうに入れられ、その家族も毎日暗い生活を余儀なくされている実情は見るにしのびない。だれか奇特な人はいないだろうかー>

地方紙が読者にこう呼びかけたのだ。早速反響があった。20数人が名乗り出た。そして高校を卒業したばかりの女性を中心に、15人の「おばこ天使」が選抜された。

<3月30日「つらい仕事は覚悟しています」と言って、重症障碍児施設、島田療育園へ善意の娘さんたち(先発)が、第2おが号で秋田駅を出発した。おりから議会開催中の間をぬって見送りにかけつけた小畑県知事が、娘さんたち一人一人にたのみこむかのように、やさしく激励する姿をみたー>

このエピソードをいまの時代にあてはめようとは思っていない。「おばこ天使」に頼る世界から生まれた『福祉の思想』の深みと、『夜明け前の子どもたち』の重みをかみしめてみる意味はあると思っている。

(法澤 奉典・のりざわ とものり)

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