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「平成の愛光」を振り返る(1)

2019年1月21日

 昭和が終わった日(1989年1月7日)、私は41歳だった。ということは昭和の文化を心の栄養源として育った世代だ。口ずさめる歌や思い出に残る映画やテレビ番組も、ほとんど昭和のものばかりだ。気が付けばすっかりデジタルに包囲されてしまった感のある平成の文化には正直言って置いてけぼりにされてしまった。

 ただそうはいっても、向こう見ずの昭和の40年に比べて、40代~50代~60代~と過ごしてきた平成の30年は、私の人生からみれば、成熟期~円熟期にあたる。多感な青春時代の昭和とは違って、平成になってからの私の身辺は比較的平穏だった。昭和59年にこの法人に採用されるまでに2度職場を変え、やっと落ちついて、ここでやっていこうと腰を据えたのがちょうど平成に変わる頃だった。

 ついそんな個人的感慨から始めてしまったが、愛光もまた法人創立(1955年)からの、昭和の34年と平成の30年を比較すれば、まさに“befor/after”のように好対照だ。まるで内外の変化とリンクしているかのようにも見える。しかしそれは単なる偶然ではない。時流に逆らうのは難しいが、「ならばこう変わろう」と、自らの意志で進路を決めてきた面もある。 ここでは4つの“変化の指標”をとりあげて、「平成の愛光」を振り返ってみたい。

 

 

1.依存から自立へ

 役所が決定したサービスを施設が利用者に提供する、という措置制度が昭和の福祉だった。サービス利用者(お客)を確保する努力はいらない。その見返りに委託された利用者は拒否できないことになっていた。この行政と施設の“give and take”関係が機能不全を見せ始めたのも昭和の終わる頃だった。

 昭和の愛光は、視覚障害・重複視覚障害をもつ人たちに向けて、特化した、専門的なサービスを、広域的にかつ独占的に展開していた。それは戦後の混乱した社会において、当事者の訴えを反映するシステムとしては有効に機能していた。特に愛光は、盲重複障害のような施策の網から零れ落ちかねない対象の支援に立ち上がった点では、制度の不備を補う役割をも担った。

 世紀末が近づいてきた頃だった。バブル景気の1980年代あたりから「豊かな社会」という言葉も聞かれはじめた。社会全体が貧しかった時代につくられたあらゆる制度はほころびを見せ始め、「改革」の大合唱となる。

 措置制度は公費で賄われるので、利用者も事業者も受け身で依存的になりやすい。利用者の自己決定とか経営における意志決定といった積極性が働きにくい。

 よく“マンネリ”と言ったりするが、どんなによく設計された制度も疲労しいずれは劣化する。それは同時に制度を運用する人間の意識の劣化でもある。「平成の福祉改革」が問うたのは、われわれの意識改革でもあったと思う。

 内心忸怩たる思いでありながら、平成12(2000)年と平成28(2016)年の2度の制度改革に、実務的に対応することに終始してきた。採算性・稼働率・コストという、福祉旧人類にとって“悪魔のキーワード”さえあえて口にしてきた。そのことを今更後悔も弁解もしない。

 しかし制度改革前もそして現在も変わらないわれわれの課題は未解決だ。それは「依存から自立へ」ということではないか。言い換えれば、法人経営・事業運営・現場実践という三つの層における「自立度」がいまも問われている。

 

(法澤奉典・のりざわとものり)

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